三十番神様

三十番神様とは

 日本には八百万(やおよろず)の神々がおられます。その神々をお祀りする神社仏閣も沢山ありますが、その日本の神々様の中でも、代表格である30体の神様を、1ヶ月30日を毎日ご当番(日番)に当てる様に選出されたのが三十番神様なのです。いわゆる神仏習合の信仰です。
 その歴史は、法華経を布教された最澄(さいちよう)(伝教大師(でんぎようだいし))が比叡山に祀られたのが、日本で最初と伝えられており、鎌倉時代には盛んに信仰されるようになりました。
 因みに31日は、法華経守護の※【五番の善神】が御当番に当てられています。31日の【五番の善神】は後付で尊崇される様になりました。
 明治5年太陽暦が採用されると、従来の大陰暦を一年の季節に合わせた旧暦(1ヶ月は29日または、30日)には無かった31日が生まれました。それに伴い、旧来の三十番神に空白の31日の日番を担う一神を加える必要性の問題が出てまいりました。そこで過去長い歴史の中で法華経守護の誓願を立て、篤き信仰を寄せられた【五番の善神】が31日の日番の善神として勧請されるようになりました。

【五番の善神(ごばんのぜんじん)】とは…“二聖(にしよう)、二天(にてん)、鬼子母神(きしもじん)・十羅刹女(じゆうらせつによ)”を指します。
 日蓮聖人の『日女御前御返事』というお手紙には「陀羅尼品と申すは、二聖、二天、十羅刹女の法華経の行者を守護すべき様を説きけり。二聖と申すは薬王(やくおう)と勇施(ゆぜ)となり。二天と申すは毘沙門(びしやもん)と持国天(じこくてん)となり。十羅刹女と申すは十人の大鬼人也、四天下の一切の鬼神の母なり、又十羅刹女の母あり鬼子母神是也」と述べられています。

新聞掲載記事

日蓮聖人と三十番神様

 建長元年、日蓮聖人28歳の時、比叡山横川の定光院で、毎朝沐浴して法華経を読誦していた時、日蓮聖人の大願に歓喜されて、日蓮聖人を励ます為に影現(ようげん)されたのが法華経守護の三十番神でした。
 三十番神には様々な三十番神がおられるのですが、私達が信仰しているのは、日蓮聖人や京都にはじめて布教された日像聖人が信仰なされた『法華経守護の三十番神』様です。
 身延山32世智寂院日省(ちじやくいんにつせい)上人(1636~1721)が著された『本化別頭高祖伝(ほんげべつずこうそでん)』には、日蓮聖人が比叡山で三十番神を拝したことが記されています。
《聖人は、比叡山横川の定光院で、毎朝水行して法華経開結10巻を読誦しておりました。聖人の願いは、一生の間に法華経の教えを理解しその教えを行じたいということでありました。ある日法華経を読誦していると、不思議な人が現れて聖人の読誦の声を聞いて去っていきました。次の日も、また次の日も、毎日人が変わって現れて、聖人の読誦する法華経を聞いていきました。聖人は、毎日法華経を聞きに来る方々はどなたであろうかと思って、ある日その不思議な人に問いました。「あなた方は一体どなたですか?」と。するとその方は、「我れ等は法華経守護の三十番神であります。聖人が大誓願を持って精進されているのを見て、我れ等は本当に喜んでおります。聖人は※本化上行菩薩(ほんげじようぎようぼさつ)で、釈尊(お釈迦様)より本門法華経の付嘱を承けた方であります。今末法(まつぽう)(お釈迦様が亡くなられて2千年以後の世の中)の時に、仏勅(ふつちよく)(仏様の戒めの言葉)を重んじて、凡夫(ぼんぷ)の身(人間の姿)としてこの世に出現されました。不思議なことであります。我れ等はいつどんな時でもまたどんな所でも、間断(かんだん)なく聖人の教化をたすけ守護いたします。我れ等は釈尊が法華経を説かれた説きに、釈尊から法華経を受持する者を守護せよと、その使命をいただいた者であります」と答えました》とあります。

【本化上行菩薩(ほんげじょうぎょうぼさつ)】
 法華経第15章(従地涌出品(じゆうじゆじゆつぽん)第15)で大地より無数の菩薩達が出現される。そんな地涌(じゆ)の菩薩の筆頭に当たる最上位の菩薩様。

日像聖人と三十番神様

 弘安5年10月11日といえば、日蓮聖人お亡くなりになる前々日のことです。日蓮聖人は日像上人を枕辺にお召しになり、『帝都弘通(ていとぐずう)(現在の京都を布教)する様に…』と委嘱なされました。それから数年が経った日像上人24歳の冬の頃、鎌倉は由比ヶ浜の海に入り、毎日お経(自我偈読誦百巻)の修行に専念されるのです。そんな百日間の修行も無事に成満なされた日像上人は、いよいよ日蓮聖人から委嘱された帝都弘通の大願に向かうのです。そこで朝廷の守護神であり、日本の国の守護神である三十番神の御守護を頂く事が何よりも大切な事であるとお考えになりました。日像上人は行く所、至る所、まずそこの神社に詣でて社神にお題目を奏上し、社僧や氏子達を教化し、神々様と親しくご縁を結んでいかれました。

※一説には、日蓮聖人が信仰されておられた時は、『天照大神・八幡大菩薩』の2神のみ勧請されるにとどまっておられたのに対して、日像聖人が初めて30体を勧請されたと証する資料も多く伝えられている。

三十番神様について

日付地名神名本殿
1日尾張 熱田熱田(あつた)大明神名古屋の熱田神宮
2日信濃 諏訪諏訪(すわ)大明神長野県の諏訪大社
3日摂津 広田広田(ひろた)大明神兵庫県西宮市の広田神社
4日越前 気比気比(けひ)大明神福井県敦賀市の気比神宮
5日近江 気多気多(けた)大明神石川県羽咋市の気多大社
6日常陸 鹿嶋鹿嶋(かしま)大明神茨城県鹿嶋市の鹿島神宮
7日山城 北野北野(きたの)大明神京都の北野天満宮
8日山城 大原江文江文(えぶみ)大明神京都市の江文神社
9日山城 貴布禰貴船(きぶね)大明神京都市の貴船神社
10日伊勢 伊勢天照(あまてらす)皇太神三重県の(伊勢)神宮
11日山城 石清水八幡(はちまん)大菩薩京都の石清水八幡
12日山城 賀茂賀茂(かも)大明神京都の賀茂神社
13日山城 松尾松尾(まつお)大明神京都の松尾大社
14日山城 大原野大原野(おおはらの)大明神京都の大原野神社
15日大和 春日春日(かすが)大明神奈良の春日大社
16日山城 平野平野(ひらの)大明神京都の平野神社
17日近江 大比叡大比叡(だいひえい)大明神大津市の日吉大社西本宮
18日近江 小比叡小比叡(しょうひえい)大明神大津市の日吉大社東本宮
19日近江 聖眞子聖眞子(しょうしんじ)権現大津市の日吉大社宇佐宮
20日近江 客人客人(まろうど)大明神大津市の日吉大社白山姫神
21日近江 八王子八王子(はちおうじ)権現大津市の日吉大社八王子社
22日山城 稲荷稲荷(いなり)大明神京都の伏見稲荷
23日摂津 住吉住吉(すみよし)大明神大阪の住吉大社
24日山城 祇園祇園(ぎおん)大明神京都の八坂神社
25日山城 赤山赤山(せきさん)大明神京都の赤山禅院
26日近江 健部健部(たけべ)大明神大津市の建部大社
27日近江 三上三上(みかみ)大明神滋賀県野洲町の御上神社
28日近江 兵主兵主(ひょうず)大明神滋賀県中主町の兵主神社
29日近江 苗荷苗鹿(のうか)大明神滋賀県大津市の那波賀神社
30日備中 吉備津吉備(きび)大明神岡山市の吉備神社
31日法華経守護五番善神(ごばんのぜんじん)霊山会

【熱田大明神】(1日)

【熱田大明神(あつただいみょうじん)】とは、熱田に祀られる神剣を通しての天照大神のことなのです。
 熱田大明神の御神体は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征のために伊勢神宮から授けられた草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)です。その草薙神剣は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟の素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)から得られた神剣です。日本武尊は、その神剣で東国を平定し、尾張の国の国造(くにのみやつこ)の館にとどまり、その娘の宮簀媛(みやずひめ)を妃としました。しかし近江の伊吹山の賊を討伐する為に、神剣は媛(ひめ)のもとに置いて出掛けたが、途中病で亡くなってしまいます。宮簀媛は、この尊い神剣を、尾張の国の聖地である熱田に社を建ててお祀りしましました。この草薙神剣を御霊代(みたましろ)として、天照大神が祀られております。
 熱田大明神がお祀りされているのは『熱田神宮(あつたじんぐう)』です。『熱田神宮』は、名古屋の熱田にあり、名古屋駅から名鉄に乗車し「名鉄神宮前駅」で下車すると、すぐ目の前が『熱田神宮』となります。
 熱田神宮は千九百年の歴史を刻む中で、朝廷はもとより、藤原氏や源頼朝、織田信長、豊臣家、徳川家等に尊崇されて、各別の大社として発展してきました。ところが先の大戦によって建造物の大半を焼失してしまいましたが、現在のように立派に復興を成し遂げました。

【諏訪大明神】(2日)

【諏訪大社(すわたいしゃ)】
 諏訪大社は、長野県の諏訪湖の周辺に4箇所の境内地を持つ神社です。諏訪湖をはさんで南に上社(かみしや)と、北に下社(しもしや)とあります。これを総称して『諏訪大社』といいます。諏訪大社は信濃国の一の宮で、御祭神は上社は「建御名方神(たてみなかたのかみ)」であり、下社はその妃神の「八坂刀女神(やさかとめのかみ)」です。
 ちなみに本殿はありません。理由は上社の御神体(ごしんたい)は「守屋山」であり、下社の御神体は、春宮が杉の御神木、秋宮が一位の御神木(ごしんぼく)だからです。

【諏訪大明神(すわだいみょうじん)】
 建御名方神は神(みわ)氏の祖先とされています。諏訪氏はじめ、池田氏や保科氏など諏訪神党の氏神でもあります。
 諏訪湖周辺には、旧石器時代から人間の住んだ跡が見られ、縄文時代の土器が多く出てきているところから、早くから人間が住んでいて独自の文化圏が形成されていました。そこには湖があり、山があり木があり水がありました。その自然環境に恵まれている中で、神様の依代(よりしろ)として山を拝み、湖を拝み木を拝んだものと思われます。その古代からの土着信仰の神が、国護りに反対して出雲の国から追われてきた建御方神(たてみかたのかみ)と合体し、【諏訪大明神(すわだいみょうじん)】として仰がれるようになりました。諏訪大明神は、武勇の神として源頼朝をはじめ武田信玄、徳川家康など歴代のの将軍方からの信仰を集め、国家の安泰の祈願所として尊ばれてきました。さらに自然が御神体ですから、雨や風、水の守り神として五穀豊穣(ごこくほうじよう)や生活安泰の神様として全国にその信仰が広がっていき現在にいたります。

【廣田大社】(3日)

 廣田(ひろた)神社は兵庫県西宮市大社町にあります。廣田神社の主祭神は、天照大神荒御霊(あらみたま)(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと))です。古代の人々は神霊を4つの魂のはたらきに分けました。つまり「荒霊(あらみたま)」・「和魂(にぎみたま)」・「奇魂(くしみたま)」・「幸魂(さちみたま)」の四魂です。
 「荒霊」は、勇猛果敢な魂のはたらき。「和魂」は、柔和で平和な魂のはたらき。「奇魂」は、不思議な霊妙な魂のはたらき。「幸魂」は、人間に幸福をもたらすはたらき。等々としています。
 廣田神社は、当時の都の西にあった古大社でしたので、西宮(にしのみや)と呼ばれ、それが西宮の地名となりました。
 明治4年には官幣大社となり、国の保護を受けて栄えました。廣田神社は、もともと甲山(かぶとやま)山麓の高隈原(たかくまはら)に鎮座しておられましたが、その後御手洗川(みたらしがわ)のほとりに遷座されました。しかし水害のために享保9(1724)年に現在の地に遷座されたという歴史があります。

【廣田大明神(ひろただいみょうじん)】
 第14代天皇である仲哀(ちゆうあい)天皇の皇后は神功(じんぐう)皇后ですが、朝鮮の新羅(しらぎ)を征服して帰途についた皇后は、九州で皇子(後の応神(おうじん)天皇)を出産し、大阪難波の港を目指しました。港が目の前という所で、船が海中でグルグル回って進めなくなりました。そこで神意を伺うと“天照大神の荒霊を広田の国に祀れ”との託宣があったとの事です。神功皇后は甲山の頂上に刀剣た宝物を埋めて献上し、その山麓に荒霊を祀られました。したがって今の廣田神社の本殿には天照大神荒霊、御脇殿には住吉大明神、八幡大菩薩、諏訪大明神、宮中八神殿の主神・高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の四神が祀られており、五神を合わせて【広田五社大明神】と呼ばれております。

【氣比神宮】(4日)

 【氣比神宮(けひじんぐう)】は、福井県敦賀曙町(つるがあけぼのちょう)にあります。JR敦賀駅から徒歩15分ほどです。氣比神宮は上古より北陸道総鎮守として仰がれてきました。
 正面入り口の重文の大鳥居は戦災を免れ、春日大社(かすがたいしゃ)や、厳島神社(いつくしまじんじゃ)の鳥居と共に、日本三大鳥居の1つとして、氣比神宮の風格を象徴しています。

【氣比大明神(けひだいみょうじん)】  氣比神宮の主祭神は「伊奢沙別命(いざさわけのみこと)」で、今から2千年前に、旧境内地であった土公(どこう)(岩石で囲んで土を盛り上げた神域)に、背後の天筒山(てづつ)から降臨した大神様だといわれています。『日本書記』には「笥飯大神(けひのおおかみ)」とあり、また『古事記』には「御食津大神(みけつのおおかみ)」と表記されている。この尊称から食物を司る神霊であることが分かります。敦賀湾は、大陸や朝鮮半島の新文化受容の玄関口でした。九州博多を大陸の西の玄関口とすれば、敦賀は東の玄関口として日本にとって重要な場所でした。それに敦賀は琵琶湖の北に位置していた為、琵琶湖水運による都への往来も盛んでした。そんな場所から、氣比神宮は国家安全、水産業隆昌、五穀豊穣の祈願所として栄えました。
 氣比神宮に参拝した人々は、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、応神天皇(おうじんてんのう)、玉妃命(たまひめのみこと)、武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)で、いま七柱の神々として祀られています。主祭神の伊奢沙別命(いざさわけのみこと)を中心にこの七柱の神々を合わせて、【氣比大明神】の総称と申し上げます。

【気多大社】(5日)

 『気多大社(けたたいしゃ)』は石川県羽咋市(はくいし)寺家町にあります。古くは気多神宮とも称したようです。この地域は縄文時代から開かれていて、奈良時代や平安時代には、国家的な祭祀が行われてきました。特に中世以降は、源実朝(みなもとのさねとも)や、能登の守護職畠山氏、前田利家をはじめ歴代の加賀藩士の崇敬をあつめてきました。
 現在の拝殿、本殿は江戸時代の造営で重文に指定されています。拝殿正面の神門も若宮神社も重文で、境内全域が何とも言えない自然にエリを正しくしたくなるような神々しい雰囲気なのです。本殿の背後には「入らずの森」があり、古くから人々の立ち位置が禁じられていて、国の天然記念物になっています。この森の中の奥宮を拝む遙拝所があり、ここから森の中に鎮座する神々を拝めます。

【気多大明神(けただいみょうじん)】
 気多大社の御祭神は「大己貴命(おおなむちのみこと)」で、いわゆる「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の事です。大国主命には色々な呼称があり、国土の諸神霊を統一した大国魂(おおくにみたま)であるともいわれています。
 出雲の国から三百余神、眷属を率いて能登に来臨し、人々を苦しめていた大蛇を退治し、天下国家を治める君民守護の神として鎮座したと伝えられています。
 古くから気多大社の本宮は、富山湾側の七尾市所口の気多本宮であるとされ、気多大社から本宮まで巡幸する平国祭(おいでまつり)が行われています。
 大国主命の御神徳は、大地や農耕を司る神様として尊ばれ、更に安全と海の幸を恵んで下さる神様として尊ばれてきました。それに国土の神霊達の統一神ということから、国家安泰を司る神様でもあります。
 本殿の右側には白山大権現(はくさんだいごんげん)をお祀りする白山神社、左側には事代主命(ことしろぬしのみこと=恵比寿さま)をお祀りする若宮神社があります。
 本殿背後の「入らずの森」の中央には、気多大社の奥宮があり、素戔嗚尊(すさのおのみこと)奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)が祀られているという事です。これらの神々様を総じて【気多大明神】と申します。

【鹿島神宮】(6日)

 茨城県鹿嶋市宮中にあります。【鹿島神宮(かしまじんぐう)】は、水戸の北の方から南に長くのびた大地の先端にあって、鹿島灘を東に眺め、西に霞ヶ浦、南西に利根川が流れる風光明媚な所にあります。鹿島神宮は常陸(ひたち)の国の一の宮で、延喜式(えんぎしき)式内社の名神大社(みょうじんたいしゃ)で、旧社格は官幣大社です。

【鹿島大明神(かしまだいみょうじん)】
 『常陸風土記(ひたちふどき)』には「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の国(日本)へ行く様にと命ぜられて、高天原(たかまがはら)より降り来たった大神(おおかみ)のみ名を、香島(かしま)の宮といい、地にては豊香島(とよかしま)の宮と名づく」と記されています。これによれば鹿島神宮の祭神は、最初は鹿島の天の大神(あまのおおかみ)と呼ばれて信仰されていたことが分かります。この地方の人々が、三方を水に囲まれた風光明媚な場所を霊地として、古代から大神をお祀りしていたものと思われます。
 鹿島神宮は、武甕槌命(たけみかづちのみこと)を主祭神としてお祀りし、経津主命(ふしぬしのみこと)(=香取神(かとりのかみ))と天児屋根命(あめのこやねのみこと)を配してお祀りしています。この3神と鹿島の天の大神とを総称して【鹿島大明神】と申す。

【北野天満宮】(7日)

 【北野天満宮(きたのてんまんぐう)】は、京都市上京区馬喰(ばくろう)町にあります。昔そこは大内裏(だいだいり)(=天皇の御殿)の北側に広がる野辺だったので、“北野”と呼ばれる様になったそうです。
 【北野天満宮】は菅原道真公をお祀りした神社で、今では親しみを込めて「北野の天神さま」と呼ばれています。
 北野には、古代から天神・地神が祀られていて、この地方の人々の信仰の霊地でした。『天神』は天候を司る神様として崇められ、『地神』は五穀豊穣を司る神として信仰されてきました。後に『天神』は雷神信仰に結びつき、『地神』も農耕神として尊ばれてきました。
 北野天満宮の本殿前にある【火之御子社(ひのみこしや)】には、「火雷神(からいしん)」が御祭神としてお祀りされており、本殿の北側には【地主社(じぬししゃ)】があって、「天神地祇(てんじんちぎ)」がお祀りされています。
 本殿の祭神は、菅原道真公(すがわらのみちざねこう)(845~903)です。北野に菅公の神殿が営まれたのは天暦元(947)年ですが、その時が現在の北野天満宮の始まりであるといわれています。
 “北野天満宮”という名前は、第二次世界大戦後に改称されたもので、それまでは【北野神社】と呼称されていました。

【北野大明神(きたのだいみょうじん)】
 【北野大明神(きたのだいみょうじん)】には、菅原道真公との深い縁起の関係があります。北野天満宮には13世紀、鎌倉時代に描かれた国宝の『北野天神縁起』があります。それには、菅原道真公の生涯と、北野天満宮の縁起が描かれています。
 菅原道真公は、代々学者の家系の家に生まれ、長じて文章博士という文人としての最高の位をきわめ、更に政治家としての才能も発揮しました。右大臣という政界のトップに近い地位に上り、天皇の信任をもとに善政を敷きました。しかし藤原時平をはじめとする仲間のざんそにあい、九州の太宰府に左遷されます。太宰府へ出発の日、自邸の紅梅殿で詠んだという、「東風(こち)()吹かば匂ひおこせよ梅の花、あるじなしとて春を忘るな」の歌は有名ですね。無念の思いで配所で過ごすこと2年、終に病にたおれて不婦の人となりました。
 その後ざんそした張本人の藤原時平は若くして亡くなり、左遷した後醍醐天皇も崩御し、数々の天変地異が続きました。相次ぐ凶変に、世の人々は菅原公の怨念を恐れ、その怨霊を静めなければならないという声が広がっていきました。
 菅原道真公が亡くなって約50年後の天暦元(947)年の6月、北野に社を構えました。その社を構えた場所が、古代からの霊地で天神・地神の祀られていた所です。この天神・地神と菅公は合体して『天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)』となられたのであります。
 菅公が生涯一貫された「誠の心」は、今も日本人の心に生き続けています。

【江文神社】(8日)

 【江文神社(えぶみじんじゃ)】は、京都市左京区大原野にあります。大原から鞍馬(くらま)へ行く途中に江文峠があり、金比羅山に抱かれる様に江文神社があります。この金比羅山を、昔は江文山と言っていて、この山頂に祀られている神々を、平安時代の後期に今の所へ移転されました。
 創建は康保3(966)年で、大原八郷と称する八ヶ町の総鎮守として尊崇されてきました。

【江文大明神(えぶみだいみょうじん)】
 江文神社は中央の御正殿の左右に相殿(あいどの)があり、三殿となっています。社殿の前の立札によれば、中央の正殿に祀られているのは、『倉稲魂神(くらいなだまのかみ)』で、「穀霊神(こくれいしん)」とあります。これは『古事記』に出てくる『宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)』で、“稲の霊”であるとしています。稲を神様としてお祀りし、大原八郷の人々は五穀豊穣を祈られたと思います。
 右の相殿には『級長津彦神(しなずひこのかみ)』がお祀りされており、「風神・(水神)」です。風神様と共に五穀豊穣に欠かせない水神様もお祀りされております。
 左の相殿には『軻遇突智神(かぐつちのかみ)』がお祀りされており、「火神」です。火の神様は、伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)の2神から生まれてきた最後の子神様で、『古事記』には色んな呼び名が表記されているが、その1つに『火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)』と記されています。「迦具(かぐ)(=軻遇)」とは“輝く”という意味があります。火の燃ゆるが如く輝いて五穀豊穣の勢いを増していこうという願いをもって祀られたものと思われます。
 もとこの【江文大明神(えぶみだいみょうじん)】が祀られていた江文山(現在の金比羅山)は、標高573米で、周囲の山々の中でも一番早く朝日が拝める所なのだそうです。その場所で、古代の人々は大洋を拝み、稲の神様、風の神様、水の神様、火の神様を拝んで豊作を祈ったと思われます。

【貴船神社】(9日)

 【貴船神社(きぶねじんじゃ)】は、京都市左京区鞍馬(くらま)貴船町にあります。京都の北山山地に鞍馬山があり、その西側に貴船山(きぶねさん)があります。その2つの山の間の谷を貴船川が流れています。この貴船川は、京の町を貫く鴨川の水源の1つで、深山の中の谷間の流れは、まさに幽境の趣があります。古来より水の神様として尊崇を集めています。
 平安の昔から、日照りや長雨が続いた時、また国家有事の際には必ず勅使(天皇様のお遣い)が差し向けられ、祈念が込められました。

【貴船大明神(きぶねだいみょうじん)】
 古来、貴船山は【貴船大明神(きぶねだいみょうじん)】の御神体として仰がれてきました。社記には「国家安穏・万民守護のために、太古天上より、貴船山の中腹の鏡岩に天降れり」とあり、また「神武天皇の皇母、玉依姫命(たまよりひめのみこと)は、浪花(尼ヶ崎)より淀川、鴨川を遡り、その川上、貴船川の上流のこの地に至り、清水の沸き出ずる霊境に水神を奉斎す」とあります。
 清流を涌き出す貴船山全体を龍神様として拝んでいたのではないかと思われます。今は、貴船神社の主祭神は、「髙靇神(たかおかみのかみ)」と呼んでいます。「髙(たか)」は、谷に対して山峯を指し、「靇(おかみ)」は龍神で雨を司る神様のことを指します。この貴船神社にお祀りする髙靇神を貴船大明神と申します。干天には祈雨を祈り、そして水害には祈晴を祈ります。
 万物は水の徳を蒙らないものはありません。その中でも浄めの力は、水に勝るものはありません。【貴船大明神】は、そんな水を司る水神様であり、龍神様であります。

【伊勢神宮】(10日)

 【伊勢神宮(いせじんぐう)】は、三重県伊勢市にあり、内宮は五十鈴川のほとりの宇治にあり、外宮は宮川のほとりの山田原にあります。詳しくは、皇大神宮(こうたいじんぐう)の内宮と、豊受大神宮(とようけだいじんぐう)の外宮の両正宮を中心として、14所の別宮や、109ヶ所の摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)、所官社(しょかんしゃ)を総称して【伊勢神宮】といいます。
 外宮の豊受大御神は、天照大神が召し上がる大御饌((おおみけ)食物)の御守護神で、一切の産業を守る神様として尊崇されています。
 伊勢神宮では、最初に外宮を参拝して、内宮へ参るという「外宮先祀(げぐうせんし)」の不文律があるので、その順序に従って参拝しましょう。
 また20年に1度「式年遷宮(しきねんせんぐう)」が行われます。この「式年遷宮」とは、宮処(みやどころ)(御敷地(おしきち))を改め、古例のままに、御社殿や神宝をはじめとして一切を一新して、大御神(おおみかみ)に神殿へお遷り頂く式です。御用材を切り出すに当たり、山の神様にその安全を祈願する「山口祭(やまぐちさい)」。御用材に墨を打ち、斧を入れて工事安全が祈られる「木造始祭(こづくりはじめさい)」。次に「鎮地祭(ちんちさい)」つまり、一般的には「地鎮祭(じちんさい)」が営まれることになっています。そんなこんなで「式年遷宮」は8年間かけての大祭事なのです。

【天照大神(てんしょうだいじん)】
 日蓮聖人は、『大曼荼羅御本尊(だいまんだらごほんぞん)』に、「天照大神(てんしょうだいじん)」「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」を勧請されており、日本国の八百万(やおよろず)の神々、三十番神等の神々の代表格として特にこの2神を尊んでおられました。
 【てんしょうだいじん】の神名は「日本書記」に示されており、「古事記」では【あまてらすおおみかみ】と表記されているのです。この他に『天照坐皇大御神(あまてらしますすめらおおみかみ)』・『大日霊尊(おおひるめのみこと)』・『天照大日霊尊(あまてらすおおひるめのみこと)』・『伊勢大神(いせのおおかみ)』・『皇大神(すめらおおかみ)』などの称号で呼ばれる大神であります。
 内宮本殿には、相殿神(あいどのしん)として東に天手力男神(あまのたじからおのかみ)、西には天孫瓊々杵尊(てんそんににぎのみこと)の御母神の萬幡豊秋津姫命(よろずはたとよあきつひめのみこと)が祀られています。
 天照大神は、もともと宮中に倭大国魂(たまとのおおくにたま)と共に祀られていました。倭大国魂とは、ヤマトの国つ神(地方神)という事であります。
 第11代の垂仁天皇(すいにんてんのう)は、”国家の安泰は神祇を篤く祭ることである”と詔しました。これに応えて皇女倭姫命(やまとひめのみこと)は、大神を永遠に鎮祭する地を求めて巡行しました。その時に天照大神は倭姫命にお告げなされます…「この伊勢の国は、神風が吹き、白波が打ち寄せていて、常住不変の美しい国である。この国に居らんと思う」と…。以来、天照大神は伊勢の地に祀られて日本国の代表的国神として信仰されております。

【石清水八幡宮】(11日)

 【石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)】は、京都府八幡市八幡高坊の男山(おとこやま)の山頂にあります。貞観元年(859)に、奈良の大安寺の僧侶だった行教(ぎょうきょう)が、宇佐八幡(うさはちまん)にこもり修行しました。その時に、「われ都に近き男山に移りて国家を鎮護せん」との神託を受けた事により、翌年の貞観2年に九州の宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)から男山に八幡神を勧請したのが創始です。
 その後、明治に入って神仏分離で、明治4年に官幣大社に列せられ、社名を男山八幡宮と改名しましたが、大正7(1918)年に旧称に復し【石清水八幡宮】となりました。

【八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)】
 石清水八幡宮の御祭神は、『誉田別尊((ほんだわけのみこと)=応神天皇(おうじんてんのう))』・『比売大神(ひめのおおかみ)』・『息長帶姫尊(おきながたらしひめのみこと)=神功皇后(じんぐうこうごう)』の三柱です。宇佐八幡宮から約6キロ東南方に大本山(おおもとやま)=(御許山とも書く)があります。大本山に宇佐八幡宮の奥宮があり『比売大神』が祀られています。古来、築柴の国神・地主神として信仰していました。海に面していた地域だった為に、海洋神として崇められ、神武天皇以来朝廷と深い結びつきを持っていました。
 大本山で修行していた大神比義(おおかのひぎ)にご神託がありました。宇佐神宮には菱型池(ひしがたいけ)という水の湧き出る池がありますが、その池のほとりに3歳の童子が竹の葉の上に立って現れこう告げました…「われは日本の神となれり。一切衆生を度(すく)わんと念(ねご)うて神となれり。われは是れ日本国八幡麻呂なり」と。この託宣によって第一殿には応神天皇。第二度のには比売大神。第三殿には神功皇后をお祀りしました。この三柱を総称して『八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)』と申し上げます。

【神山】(12日)

 上賀茂神社(かみがもじんじゃ)の北北西2キロの所に、標高301メートルの神山(こうやま)があります。神山は円錐形(えんすいけい)の美しい神名備山(かむなびやま…神が鎮座する山)で、太古の昔『賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ)』がご降臨されたと伝えられています。山頂には降臨されたといわれる巨岩の磐座(いわくら)があり、まだ社殿が無かった頃の原子神道の姿を残しているという事です。
 欽明天皇の御代(6世紀)に、日本国中が風水害に見舞われ、国民の窮状を見るに忍べず、天皇はご神託を請いました。加茂大神を篤く祀れとのご神託を頂いて、4月の吉日を選び盛大にお祭りを行いました。これが加茂祭(葵祭(あおいまつり))の起こりです。

【上賀茂神社】
 【上賀茂神社(かみがもじんじゃ)】の正式名称は、【賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)】で、主祭神として賀茂別雷大神(かもわけいかずちのおおかみ)が祀られている。山城(やましろ)の国の一の宮です。
 雷(いかづち)の御神威により、厄を祓いあらゆる災難を除く、厄除け明神・落雷除・電気産業の守護神。また鬼門の守り神や、地主の神として尊崇されています。 最初に建てられた加茂神社は、神山の遙祭殿(ようさいでん)として建てられました。その後の本殿や楼門内の初殿も全て神山に向かっていて、祭祀も神山の方に向って行われる位置構造になっています。

【下鴨神社】
 【下鴨神社(しもがもじんじゃ)】の正式名称は【加茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)】といいます。上加茂神社と共に山城の国の一の宮です。
 下鴨神社は東殿に『建玉依姫命(たけたまよりひめのみこと)』、西殿に『加茂建角身命(かものたけつぬのみのみこと)』をお祀りしています。
 加茂建角身命は、神武天皇(じんむてんのう)が東征の時、天照大神らの命を受けて天降り、熊野から大和への難路を八咫烏(やたがらす)と化して天皇を導いた神様です。
 建玉依姫命は、その加茂建角身命の姫で、玉依姫命の神婚によって生まれたのが上加茂神社の祭神の『加茂別雷命(かもわけいかずちのみこと)』なのです。したがって加茂別雷命は建玉依姫命の子供であり、加茂建角身命の孫である事から、下鴨神社は「御祖神社(みおやじんじゃ)」と呼ばれる様になりました。
 下鴨神社は、加茂神社が勢力を増してきたので、天平勝宝2年までの間(~750)に上加茂神社から分立させられたといわれています。それで上社下社を区別する必要から、上社を『加茂神社』、下社を鴨の旧字を残して『鴨神社』としたと伝えられています。

【加茂大明神(かもだいみょうじん)】
 【加茂大明神(かもだいみょうじん)】は、神山(こうやま)を御神体として、古代から信仰されていた神様に、『別雷命(わけみかずちのみこと)』・『建角身命(たけつぬのみのみこと)』・『建玉依姫命(たけたまよりひめのみこと)』が合体して、【加茂大明神】と総称された神様であります。貴船川(きふねがわ)から加茂川に流れ、神山から加茂川に注ぐ水の信仰から、天地自然を司る大神様として信仰されています。それに京都の鬼門を守る神様としても仰がれています。

【松尾大社】(13日)

 【松尾大社(まつおたいしゃ)】は京都市西京区嵐山宮町の松尾山の麓にあります。現在の本殿は室町時代初期の応永4(1397)年に建造されたものです。本殿は松尾造りと称されていて、重要文化財に指定されています。
 松尾山(223メートル)に古社地があり、山頂に近い大杉谷に、磐座(いわくら)とされる巨石があります。5世紀頃、渡来人の秦氏が山城国一帯に居住し、松尾山の神【大山咋神(おおやまいくのかみ)】を氏神としました。『大山咋神』については【古事記】に「亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛野(かど)の松尾(まつのお)に坐して、鳴鏑(なりかぶら)を用つ神ぞ」と記されており、古事記が編纂された頃には有力な神様とされていた事が分かります。
 『松尾大社』は近代社格制度のもと、全国神社の中で第4位の序列をもって、明治4(1871)年に『松尾神社』として官幣大社に列格し、終戦後は宗教法人となりましたので『別表神社』、そして昭和25(1950)年に現在の『松尾大社』に改称しました。
※同名神社との混同を避ける為に『松尾神社』から『松尾大社』と改称されたのです。

【松尾大明神(まつおだいみょうじん)】
 『松尾大社(まつおたいしゃ)』の祭神は、『大山咋神(おおやまいくのかみ)』『市寸島姫命(いちきしまひめのみこと)』の2神です。
 『大山咋神』については【古事記】に「葛野(かど)の松尾(まつのお)に坐して、鳴鏑(なりかぶら)を用つ神ぞ」とあるところから、山の上に鎮座して山および山麓一帯を支配する大主(おおぬし)の神であります。
 『山城国風土記』には、大山咋神が丹塗矢(にぬりや)と化して瀬見(せみ)の小川を流れ下り、玉依比売と婚姻して『加茂別雷命(かものわけいかづちのみこと)』を生み給うたとあります。この加茂別雷命をお祀りしているのが『上賀茂神社』です。
 もう1人の祭神の『市寸(杵)島姫命』は、福岡県の『宗像大社(むなかたたいしゃ)』に祀られている三女神の一神で、安芸(あき)の国の『厳島神社』に祀られている『厳島弁財天(いつくしまべんざいてん)』です。この姫神は古くから海上安全の霊徳があると仰がれていました。外来民族だった秦氏は、朝鮮と日本を往来する関係から、航海の安全、海上安全を祈って、この松尾大社に勧請したものでありましょう。
 この2神を松尾山の神霊と合体させて【松尾大明神】と申し上げます。御神徳は古来、【開拓・治水・土木建築・商業・文化・寿命・交通・安産の守護神】として仰がれ、京都洛西の総氏神として崇敬されています。

【大原野神社】(14日)

 【大原野神社(おおはらのじんじゃ)】は、京都市西京区大原野南春日町にあります。旧官幣中社で、『京春日』と呼ばれています。
 延暦3年(784)甲子(きのえね)の年に、桓武天皇が都を大和の奈良から、山背(やましろ)国(のちの山城国)の長岡京(現向日市)に遷都された時、天皇は鷹狩りを愛し、しばしば大原野に足を運んで鷹を放たれたということです。
 長岡遷都の時、皇后藤原乙牟漏(おとむろ)は皇城守護のために、この景勝で幽玄な地に氏神である春日大社の分霊を遷し、祀る事にしたのが『大原野神社』の起こりになります。

【大原野大明神(おおはらのだいみょうじん)】
 【大原野大明神(おおはらのだいみょうじん)】は藤原氏の氏神である春日大社の4つ柱の大神と、京の西山といわれる大原山に古くから祀られていた山神と合体した大神様です。
 第一殿には『建御賀豆智命(たけみかずちのみこと)』、第二殿には『伊波比主命(いわいぬしのみこと)=(経津主命(ふつぬしのみこと))』、第三殿には『天之子八根命(あめのこやねのみこと)』、第四殿には『比咩大神(ひめおおかみ)』が祀られています。
 『建御賀豆智命』は、天孫降臨に先立って、天照大神の命を受け『経津主命』と共に出雲に趣き、『大国主命(おおくにぬしのみこと)』と交渉し、その子、『建御名方神(たてみなかたのかみ)』を屈服させて国護りの大業を成し遂げた神様です。ですから建御賀豆智命と伊波比主命は、国造りに活躍した神々で、日本の国を守って頂く重要な役目をお持ちになっておられます。
 第三殿の『天之子八根命』『比咩大神』は東大阪市の「枚岡神社(ひらおかじんじゃ)」から春日大社に遷座されたと言われている。
 『鹿島神社』と『春日大社』、それに大原野神社は藤原氏とのつながりの中で祭神は々ですが、それぞれの場所の大霊と合体して、独自のご神格を持たれてお働き下さっていると思います。

【春日大社】(15日)

 【春日大社(かすがたいしゃ)】は奈良市春日野の三笠山の麓、つまり奈良公園の中の深い林の中にあります。本殿は文久3(1863)年に再建されたもので国宝になっています。その他の諸建築は重要文化財に指定されています。平成10(1998)年12月に、春日大社は「古都奈良の文化財」として『世界遺産』に登録されています。
 『春日大社』は旧官幣大社に列せられて、かつて『春日神社』と呼ばれていましたが、第二次世界大戦後は全国にある春日神社の総本社として、『春日大社』と称する様になりました。

【春日大明神(かすがだいみょうじん)】
 鹿島に祀られている『武甕槌命(たけいかづちのみこと)』は、神鹿の背に乗って奈良に来て、御蓋山の山頂浮雲(うきぐも)の峯(みね)にお鎮まりになりました。その後この第一殿は今の御蓋山の麓に移され、第二殿に香取神・『経津主命(ほつぬしのみこと)』がお祀りされました。
 この両命(みこと)は、天照大神の命を受けて、国護りの大業を成し国造りに活躍した神々で、日本の国を守る重要な役目を持っておられます。藤原氏はこの神々を氏神としてお祀りしました。更に第三殿、第四殿には、天照大神が天の岩戸にお籠(こ)もりになった時、その前で祭事を行った神様で、『河内国枚岡神社(こうちのくにひらおかじんじゃ)』に祀られている『天児屋根命(あめのこやねのみこと)』『比売神(ひめがみ)』が勧請されています。この四殿の四神と御蓋山の三神と合体して、総じて【春日大明神(かすがだいみょうじん)】と申し上げます。

【平野神社】(16日)

 【平野神社(ひらのじんじゃ)】は、京都市北区平野宮本町にあります。北野殿万宮のすぐ西に位置しています。平野神社の創建は桓武天皇(かんむてんのう)が平安京に都を移された延暦(えんりゃく)13(794)年です。桓武天皇が平安京の守護神として、乾((いぬい)北西)の鎮護の為にお祀りになりました

【平野大明神(ひらのだいみょうじん)】
 平野神社の祭神は、第一殿は『今木神(いまきのかみ)』、第二殿は『久度殿(くどのかみ)』、第三殿は『古開神(ふるあきのかみ)』、第四殿は『比売殿(ひめがみ)』です。平野の地に祀られたこの四神を総称して【平野大明神(ひらのだいみょうじん)】と申し上げます。
 第一殿の『今木神』は、大和の今木群に住んでいた百済(くだら)系の渡来人達が祀っていた神様でした。百済の聖明王(せいめいおう)や、染織の神様ともいわれ、和(やまと)氏の遠祖として崇敬されていました。
 桓武天皇のご生母である高野新笠(たかのにいがさ)の父は、和乙継(やまとおとつぐ)という百済からの渡来人でした。この外殿の祖父達が祀っていた今木神を、桓武天皇は平安京の平野にお祀りしたものです。源気新生のご神徳です。
 第二殿の『久度神(くどのかみ)』は、中国の北部から朝鮮半島にかけて信仰されていた竈(かまど)の神様で、今木神と同じく百済系の人々によって渡来した神様です。衣食住の生活安泰のご神徳があります。
 第三殿の『古開神(ふるあきのかみ)』はやはり百済渡来の神様で、和氏との関係から今木神と共に平野神社に祀られました。ご神徳は、邪気を振り開(はら)って平安にする力があるという事です。
 第四殿の『比売神(ひめがみ)』は、桓武天皇のご生母である高野新笠(たかのにいがさ)であるとされています。この『比売神』は染織に熱心でこれを奨励した為に、京都の西陣織や京友禅の発展のもとになったと言われています。そういう事から生産力のご神徳をお持ちの神様として仰がれています。『平野大明神』は、日本と融合した国際的な神様です。

【日吉大社西本宮】(17日)

 【大比叡大明神(だいひえいだいみょうじん)】【日吉大社西本宮(ひよしたいしゃにしほんぐう)】の御祭神です。『日吉大社』は滋賀県大津市坂本にあります。
 『日吉大社』の『西本宮』には『大比叡大明神』。『東本宮』には【小比叡大明神(しょうひえいだいみょうじん)】、『摂社(せっしゃ)』の『宇佐宮(うさぐう)』には【聖真子権現(しょうしんじごんげん)】。『牛尾宮(うしおぐう)』には【八王子権現(はちおうじごんげん)】【白山姫神社(しらやまひめじんじゃ)】には【客人大明神(まろうどだいみょうじん)】が勧請されています。
 この『日吉大社』には『山王(さんのう)二十一社』といって、上七社、中七社、下七社があります。これらの二十一社の神々様を総称して【山王権現(さんのうごんげん)】と申し上げます。
 伝教大師(でんぎょうだいし)最澄(さいちょう)が中国の天台山(てんだいさん)国清寺(こくせいじ)に行った時、山王祠があって山王が祀られていたことにちなんで、比叡山の山神を山王と称したことから、『日吉神社』は『日吉山王社』と呼ばれる様になりました。
 日吉山王社は神仏習合思想と融合し、比叡山延暦寺と共に発展してきました。

【大比叡大明神(だいひえいだいみょうじん)】
 天智6(667)年3月、天智天皇は都を大和から近江の大津に移されました。天智2年に朝鮮に出征し、唐(とう)・新羅(しらぎ)の連合軍に大敗しました。国情は不安に陥り、大和の地は火災が続発していました。外的の権威と不安の国情を払拭する為に天智天皇は遷都を決断されます。
 東から南にかけて水があり、西から北が高知で南が低いという吉祥の地に大津京を定められたのです。その近江遷都の翌年、大津京の守護神として、大和の三輪山(みわさん)の【三輪大明神(みわだいみょうじん)】を『日吉神社』に勧請されました。
 大和の『三輪山』は、【大己貴神(おおなむちのかみ)】の神体山で、【三輪明神】とも呼ばれて信仰されています。【大己貴神】というのは、『古事記』では【大国主神(おおくにぬしのかみ)】のことで、『日本書記』では【大己貴神】と呼んでいます。いずれにしても、大国を治める神様で、日本の国の守護神です。
 天智天皇は、この国神を新都にお迎えして比叡の山の麓に祀り、比叡山の山神と一体化させ【大比叡大明神(だいひえいだいみょうじん)】と呼んで国の安全と繁栄をお祈りしたものと思われます。

【日吉大社東本宮】(18日)

 【日吉大社東本宮(ひよしたいしゃひがしほんぐう)】日吉大社は、東本宮の地が創祀の地なのです。牛尾山山頂の奥宮の山上を里宮としてお祀りしたことから始まったと言われています。牛尾山は、八王子山とか『小比叡峰』と呼ばれています。牛尾山の背後に比叡山がそびえていて、比叡山を『大比叡(だいひえい)』というのに対して、牛尾山は『小比叡(しょうひえい)』と呼ばれています。

【小比叡大明神(しょうひえいだいみょうじん)】
 東本宮の二宮の御祭神は【大山咋神(おおやまいくのかみ)】です。『日本神祇由来事典』によると、『大山咋神』という神名の意味は、“偉大なる山の境界の杙(くい)の神”とあります。つまり山の頂上を司る偉大な神様ということです。偉大な力を持った山神であることが分かります。
 牛尾山を朝な夕な眺めて過ごしていた古代の人々は、牛尾山に宿る山神をその地方一帯の地主神として信仰し、日々の生活の安寧と五穀豊穣を祈ったものと思われます。
 『古事記』には、『大山咋神』は父親の『大年神(おおとしがみ)』と、母親の『天知迦流美豆比売神(あめしるかるみずひめのかみ)』の下で10人の御子神の一人として生まれた神様ということです。父神は穀物の守護神で稲の稔(みの)りの神様です。
 10人の御子神のご神徳は、まどの荒神、屋敷の守護神、足下の守護神、族の神、土地の守護神等としての役目を頂いています。特にこの『大山咋神』は、父神のご神徳である田の神、五穀の神、水の神、酒造りの神としてのお働き下さる神様であります。
 古代の人々は自然を拝み、山を御神体として仰ぎ、水を神様の授け物として尊びました。

【日吉大社宇佐宮】(19日)

 【宇佐八幡神(うさはちまんじん)】つまり、宇佐の八幡様をお祀りしているところから、そう名付けられたのです。この【宇佐八幡大菩薩(うさはちまんだいぼさつ)】を、【聖真子権現(しょうしんじごんげん)】と呼んでいるので、『聖真子宮(しょうしんじぐう)』とも言っています。『大比叡』、『小比叡』、『聖真子』の三神を天台宗では【山王三聖(さんのうさんしょう)】として、日吉山を代表する神様として尊崇しています。

【聖真子権現(しょうしんじごんげん)】
 【権現(ごんげん)】とは、権(かり)に神様となって現れたという意味です。権現思想は平安時代の中頃、10世紀頃から出てきた「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」に基いています。つまり、日本の神様の本地は仏様であって、日本の人々を救済する為に権に神様となって現れてきたという考え方です。
 天照大神の本地は大日如来であり、八幡神の本地は阿弥陀仏ないし観世音菩薩であるとしています。それで神様の名前に権現号をつけて春日権現、熊野権現、蔵王権現、山王権現などと呼ばれる様になりました。
 ちなみに【聖真子(しょうしんじ)】という名前がどこから出てきたものか調べてみましたが、どこにも見当たりませんでした。想像するに、聖と真という言葉に象徴される様な尊い神様という事だと思います。

【日吉大社白山宮】(20日)

 白山宮は、正式には【日吉大社摂社白山姫神社(ひよしたいしゃせっしゃしらやまひめじんじゃ)】といい、客人大明神をお祀りしているところから【客人宮(まろうどぐう)】ともいいます。
 現在の本殿は、慶長3(1598)年に建てられたもので、明治39(1960)年4月に。国の重要文化財に指定されています。『西本宮』、『東本宮』、『宇佐宮』は【山王三聖(さんのうさんしょう)】と呼ばれて尊崇されていますが、白山宮はそれに次ぐ高い地位が与えられていて、「山王七社」の中に入っています。
 因みに「山王七社」の中に入っています。「山王七社」は、山王三聖とこの白山宮、おれに『牛尾宮(うしお)』、『樹下宮(じゅげ)』、『三宮宮(さんのみやぐう)』をいいます。

【客人大明神(まろうどだいみょうじん)】
 白山宮(はくさん)の御祭神は【客人大明神(まろうどだいみょうじん)】です。『客人大明神』は石川県の【白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)】にお祀りされています。
 “白山”は、富士山、立山と共に日本の三名山の1つに数えられ、四季を通じて白雪があるところから白山と呼ばれる様になったといいます。
 福井県に『泰澄(たいちょう)』という名僧がおりました。彼は常に白山の偉容を拝していたところ、天女の夢を見ました。養老元(717)年に白山へ登拝(とうはい)する事を決心して白山の麓に行ったところ、再び【天女妙理権現】の夢を見て登頂しました。
 主峰の『御前峰((ごぜんぽう)2702メートル)』【白山妙理権現(=菊理姫神(くくりひめのかみ))】の本地仏である【十一面観音(じゅういちめんかんのん)】を感得しました。更に『剣ヶ峰』に登って【小白山権現】の本地仏【聖観音(しょうかんのん)】を拝し、『大汝(おおなんじ)峰』に登っては【大己貴命(おおむなちのみこと)】にお会いしたと伝えられています。
 この三峰は『白山三峰』といわれ、この三峰の神様達を総称して『白山三所権現』と呼ばれ、人々の信仰を集めました。
 泰澄が初登頂し、山頂に【白山妙理権現】を勧請した2年後の養老3年には、全国にその霊験があらたかであることが広まり、参拝者が陸続きとなったといわれています。
 この北陸の山岳信仰で尊ばれた【白山大権現=菊理姫神】は、『日吉神社』に天降り、【客人大明神】としてお祀りされました。“客人”とは、他から訪れてきた神様という事から、そう呼ばれたものと思われます。

【日吉大社八王子宮】(21日)

 【日吉大社(ひよしたいしゃ)】は、「牛尾山」の麓にあります。その牛尾山の背後が「比叡山」です。「牛尾山」は「八王子山」とも「小比叡峰」とも呼ばれていて、『日吉大社』の発祥は、この「牛尾山」への信仰から始まったと言われています。
 「牛尾山」の山頂付近にある石段を登っていくと、正面に「金大巌(こがねのおおいわ)」があり、その右に「牛尾宮(うしおぐう)」、左に「三宮宮(さんのみやぐう)」があります。「牛尾宮」は文禄4(1595)年、「三宮宮」は慶長4(1599)年に建てられたもので、ともに国の重要文化財に指定されています。この両宮は山に懸け造り(舞台造)の珍しい造りです。

【八王子権現(はちおうじごんげん)】
 奥宮の「八王子宮(=牛尾神社)」には、【大山咋神荒魂(おおやまいくのかみあらみたま)】が祀られています。「三宮宮」には【鴨玉依姫荒魂(かもたまよりひめあらみたま)】が祀られています。“荒魂(あらみたま)”とは、神様の働きを4つに別けた中の、最も勇猛進取な魂の強い働きをいいます。
 この大山咋神の荒魂が「八王子山」に天降ったとおろから【八王子権現(はちおうじごんげん)】と呼ばれています。もともと「八王子山」は神体山ですから、古来あらたかな山、『八王子様』として信仰されていたものと思われます。
 ちなみに、この「八王子宮」が『日吉神社』の発祥です。

【伏見稲荷大社】(22日)

 【伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)】は京都市伏見区深草藪之内町にあります。伏見稲荷大社のある伏見区は、京都の東山三十六峯の最南端に位置し、稲荷大社はその『稲荷山(いなりさん)』の麓にあります。この地は巨大な沼沢湖であったといわれ、それが沖積作用によって豊かな地となり、古代人が多く住んで、農耕民の集落を形成していました。その集落の上にそびえる『稲荷山』を、その集落の人々は「神体山」として尊崇していました。
 『稲荷山』は、旧称は『三峰(みつがみね)』といわれ、山麓の本殿に近い峰から順に、「三ノ峰」、「二ノ峰」、「一ノ峰」があります。「一ノ峰」に『上社』、「二ノ峰」に『中社』、「三ノ峰」に『下社』が、それぞれにあります。
 この三社の神域までの本殿からの道に、俗に千本鳥居と呼ばれる朱の鳥居がトンネル状に並んでいて見事なものです。『稲荷大社』の境内には一万数千基のお塚、一万余の鳥居が奉建されています。
 『稲荷大社』の社殿は、応仁の乱で焼失しましたが、その後造立されて、現在の本殿は明応8(1499)年に建立され、現在重要文化財です。

【稲荷大明神(いなりだいみょうじん)】
 【伏見稲荷大社】の御祭神は【宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)(下社・中央社)】、【佐田彦大神(さだひこのおおかみ)(中社・北座)】・【大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)(上社・南座)】・【田中大神(たなかのおおかみ)(田中社・最北座)】・【四大神(しのおおかみ)(四大神社・最南座)】の五柱で、これを総称して【稲荷大明神(いなりだいみょうじん)】と称します。
 新羅(しらぎ)から渡来した秦(はた)氏の遠祖、秦公伊呂具(はたのきみいろぐ)は大変な富者でした。ある時、餅を的として矢を射ると、その餅が白鳥となって飛び翔(かけ)り、『三が峰(みつがみね)』の山上に止まり、そこに稲が生じました。不思議に思った伊呂具は、そこへ神社を建てて『伊奈利社(いなりしゃ)』と名付けました。これが『山城風土記(やましろふどき)』に出てくる稲荷社創建のいわれです。
 この伊奈利社は、古来からの神体山信仰と合体し、稲荷信仰に発展してきたものと思われます。したがって主祭神は、穀物の神様である【宇迦之御魂大神(うかのみたまおおかみ)(倉稲魂神(うかのみたまのかみ))】です。
 中社の『佐田彦大神』は猿田彦命(さるたひこのみこと)のことで、道開きの神で神像は赤顔の天狗の姿です。
 上社の『大宮能売大神』は調和の神様といわれています。また稲荷大明神の無限の力を末広という言葉で表現して上社を【末広大明神】、青々と繁茂する樹木の生育の力にたとえて中社を【青木大明神】、霊徳の高貴さを白菊になぞらえて下社を【白菊大明神】とも呼んでいます。
 【稲荷大明神】は、もともと五穀豊穣の神様でしたが、その神徳の高さから商工業者の信仰を集めて、社運隆昌、商売繁盛の神様として広く流布してきました。それが会社や個人の屋敷神として奉祀される様になって親しまれています。

【住吉大社】(23日)

 【住吉大社(すみよしたいしゃ)】は大阪市住吉区住吉2丁目にあります。
 神功皇后(じんぐうこうごう)は、新羅(しらぎ)出兵に当たって、住吉大神のご加護を頂いて大いに国威を輝かせられました。凱旋(がいせん)の後に、大神のご神託によって、此の地にお祀りになったと、『住吉大社』の由緒に書かれています。
 全国2千余に及ぶ『住吉神社』の総本宮です。

【住吉大明神(すみよしだいみょうじん)】
 【住吉大明神(すみよしだいみょうじん)】海の神様です。もともとこの地の海岸に、海の神様を拝む信仰があったものと思われます。この海神の信仰が、『古事記』や『日本書記』の神話と合体していったものと思われます。
 『古事記』や『日本書記』によると、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が海の底に沈んで濯(すす)ぎたまいし時「底筒男命(そこつつのおのみこと)」をお生みになりました。次に潮の中で濯ぎたまいし時「中筒男命(なかつつのおのみこと)」をお生みになりました。又潮の上に浮かんで濯ぎたまいし時「表筒男命(うわつつのおのみこと)」をお生みになりました。
 この三神を総称して【住吉大明神】と尊称します。
 【住吉大明神】は、禊祓(みそぎはらい)の御神格を持ってご出現なさった神様ですから「浄め」の事を司る神様です。色々な災いは不浄から起きるといわれますから浄めは信仰の根本であります。
 また【住吉大明神】は、神功皇后に“吾が和魂(にぎみたま)をばよろしく大津の渟中倉(ぬなくら)の長峡(ながお)に居(ま)さしむべし。便(すなわ)ち因(よ)りて往来(ゆきかよ)う船を看護(みそなわ)さむ”とお告げになりました。渟中倉は『住吉大社』の南端に当たります。この事から海上安全の守護としても崇められてきました。遣唐使、遣隋使の出発に当たっては、朝廷より奉幣があり海上安全の祈願が篤くなされたといわれています。
 【住吉大社】の社殿は、縦に並んでいることが特徴で、『住吉造(すみよしづくり)』として国宝に指定されています。

【八坂神社(祇園社)】(24日)

 【八坂神社(やさかじんじゃ)=祇園社(ぎおんしゃ)】の『祇園祭』は京都三大祭の1つで、7月に賑やかに行われています。
 天禄(てんろく)元(970)年、天下に疫病が流行した時に勅命によって悪霊退散の祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が行われました。これが祇園祭の始まりです。

【祇園大明神(ぎおんだいみょうじん)】
 『八坂神社由緒略記』によれば、八坂神社の御祭神は、中御座に【素戔嗚尊(すさのおのみこと)】。東御座に【櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)】。西御座に【八柱御子神(やはしらのみこがみ)】等十三座の神々様です。これらの神々様を総称して【祇園大明神(ぎおんだいみょうじん)】と申し上げます。
 東山の麓の八坂郷には、昔から古い鎮守神がありました。それは高句麗(こうくり)系の帰化人の八坂氏の氏神であったといわれていますが、この地が当時の人々の信仰の中心であったと思われます。
 その後、牛頭(ごず)天王のご神託によって、この地に牛頭天王を祀る社が建てられました。その後、牛頭天王の御子である8人の王子を祀る「祇園寺(感神院)」が建立されました。
 歴史的には、『八坂社』、『牛頭天王社』、『祇園寺』の三社寺は、それぞれ別でしたが、それが【祇園会】という形で合体してきたということです。
 【牛頭天王(ごずてんのう)】は、インド舎衛城(しゃえいじょう)の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神です。頭に牛の角を持ち、夜叉の如く、形は人間に似ていても、猛威ある御霊的神格だったことから、『素戔嗚尊(すさのおのみこと)』に習合され、『八坂神社』に祀られて除疫神として尊崇される様になりました。【牛頭天王】は疫病除け(えきびょうよけ)の神様として信仰され、疫病が流行すると、政治的に対立して失脚した人の怨霊ではないかというので御霊会(ごりょうえ)を営む様になりました。それが『祇園祭』として発展し定着しました。

【赤山禅院】(25日)

 【赤山禅院(せきざんぜんいん)】は、京都市左京区修学院赤山町の修学院離宮の北隣にあります。京都市の東北、つまり京都の表鬼門に位置しているところから、都の表鬼門を守護する方除(ほうよけ)のお寺として尊ばれている天台宗・比叡山延暦寺の支院です。周りの山には「もみじ」の木が沢山あります。古来「紅葉寺(もみじでら)」として親しまれ、十一月中は「紅葉まつり」が開かれています。
 比叡山延暦寺の第三世座主(ざす)・慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)は、承和(じょうわ)五(838)年に遣唐使船で中国に渡りました。九年間中国で修学し、承和十四(837)年に帰朝して天台座主となられました。その日本への帰路、出港地の泰山(たいざん)の山神、「泰山府君(たいざんふくん)」のご守護を頂いて、無事に帰国できたことから、比叡山の西登山口の赤山に、「泰山府君」を祀る事を弟子の安慧(あんね)に命じました。師匠の遺命を受けて、仁和四(888)年安慧は『赤山禅院』を創建しました。

【赤山大明神(せきさんだいみょうじん)】
 『赤山禅院』に祀られている【赤山大明神(せきさんだいみょうじん)】は、中国の信仰上の五つの霊山、つまり五岳(ごがく)の東山、泰山(たいざん)の山神で、【泰山府君(たいざんふくん)】です。
 【泰山府君】は「南極星」の星神です。南極星は「福禄寿星神」なので、幸福、高禄、長寿の三徳を授けて下さる神様として尊ばれています。
 【赤山大明神】は色々なお姿でお祀りされていますが、いま【赤山禅院】にお祀りされている木像は江戸期に勧請されたものだという事です。その木像は、三山冠(さんざんかん)を頂き、髭(ひげ)を生やし、赤地の唐装束(からしょうぞく)の座像です。
 毎月五日が【赤山大明神】のご縁日です。特に一年の中でも滅多にない「申(さる)の日」の五日に「赤山さん」に詣でると、吉運に恵まれるという噂が広まりだして、江戸時代には「赤山さんは掛け寄せ(集金)の神様」という噂が立つ様になりました。それで申の日でなくても、五日講ご縁日には商売繁盛を願う参詣者が多くなった様です。

【建部大社】(26日)

 【建部大社(たけべたいしゃ)】は、滋賀県大津市神領の瀬田の唐橋を渡った東、大野山を背後に背負う景勝の地にあります。
 景行(けいこう)天皇46年に、『日本武尊(やまとたけるのみこと)』の子供である『建部稲依別王(たけべいなよりわけのおおぎみ)』が、神勅によって、『近江国神崎群建部郷千草嶽(おうみのくにかんざきぐんたけべごうりちぐさだけ)』に、社を創設して『日本武尊』の霊を祀って、【建部大神(たけべだいじん)】と崇称しました。
 天武天皇の御代に、『建部連安麿(たけべのむらじやすまろ)』に勅して、社を瀬田郷大野山(せたごうりおおのさん)の嶺に遷祀(せんし)しました。
 天平勝宝7(755)年に建部公尹賀麿(たけべこういんがまろ)が勅を奉じて再び大野山麓広庭に遷座しました。現在の【建部大社】の所です。
 源頼朝は建部大社を崇敬し、鎌倉幕府は本宮及び摂社末社を寄進造営しています。旧官幣大社で、近江国一の宮です。

【建部大明神(たけべだいみょうじん)】
 【建部大社】の主祭神は「日本武尊(たまとたけるのみこと)」です。相殿に【天照皇大神(てんしょうこうだいじん)】をお祀り、本殿の西に並ぶ権殿は【大己貴神((おおむなちのかみ)=大国主命(おおくにぬしのみこと))】をお祀りしています。この三神を総称して【建部大明神(たけべだいみょうじん)】と申し上げます。  第12代景行(けいこう)天皇の御代は2世紀前半で、大和朝廷の勢力が東西に大きく伸展していった時でした。西の熊襲(くまそ)を討ち、東の蝦夷(えみし)を征服して、いよいよ日本の統一がなされようとしていました。その大きな力になったのが『日本武尊(やまとたけるのみこと)』でした。
 日本武尊は、景行天皇の第二皇子でした。気性は荒く、力も強かったと伝えられています。父の命に従わない兄の『大碓尊(おおうすのみこと)』を諭すのに、その手足をもぎ取り、鷹に包んで捨ててしまいました。天王は日本武尊のその荒い気性を恐れて、危険な熊襲討伐を命じました。
 天皇の命令を見事に果たし、熊襲の頭領からもその勇敢さを褒められました。
 九州を平定して大和に帰った日本武尊に、天皇は乱れている東国を平定する事を命じました。東国へ向かう途中【伊勢神宮(いせじんぐう)】に参り、倭姫命(やまとひめのみこと)より草薙剣(くさなぎのつるぎ)を授けられました。
 駿河の焼き津では危うく焼き打ちにあうところでしたが、草薙の剣によって難を逃れました。
 東京湾口の浦賀水道を千葉に向かっていた時暴風雨にあいましたが、有名な弟橘姫の海神への人身御供養(ひとみごくう)によって救出されました。
 日本武尊は日本の守護神、【建部大明神】となりました。

【御上神社】(27日)

 【御上神社(みかみじんじゃ)】は、滋賀県野洲(やす)市三上838番地にあります。「近江富士」と呼ばれる円錐形の三上山(432メートル)の西麓に、西に面して神社があります。御上神社の位置する野洲市三上は、以前は三上村といって5つの地域から成り、野洲流域の平野部の農村として発展してきました。その集落の人々の信仰の中心となったのが、この近江富士の【三上山(みかみさん)】でした。
 『三上山』には2つの峰があり、男山と女山と呼ばれています。頂上には巨石の盤座(いわくら)があり、奥宮が祀られているという事です。旧暦6月18日には山上祭が行われ、神体山信仰の姿が伝えられているといいます。養老2(718)年に、藤原不比等(ふひと)が勅命によって現在の地に社殿を造立しました。
 『御上神社』は延喜式では【名神大社(みょうじんたいしゃ)】に列せられていて、旧官幣中社です。本殿も拝殿も、楼門も入母屋造りで、鎌倉時代に建立されたもので、本殿は国宝、拝殿と楼門は重文に指定されています。

【三上大明神(みかみだいみょうじん)】
 三上山は、御上山(みかみやま)、三神山(みかみやま)、御影山(みかげやま)と称されている神体山です。山頂は竜王様と呼ばれて古来信仰をあつめています。
 この霊山に第七代孝霊天皇六年六月十八日に、祭神の【天之御影神(あめのみかげのかみ)】がご降臨になりました。
 『天之御影神』は、【天照大神(あまてらすおおみかみ)】の御孫の【天目一箇神(あめのまひとつのかみ)】とご同神だといいます。
 『天目一箇神』は、日の神である『天照大神』が天岩屋戸に隠(こも)られた時に、祭具としての刀剣や斧や鉄鐸(さなぎ)、飾り物を造る役をしたと伝えられています。したがってその製作に当たっては、浄い火、浄い水を豊富に使うところから、火徳・水徳を兼ね備えた霊威ある神様と崇められてきました。
 【三上大明神(みかみだいみょうじん)】は近郷近在はもとより、朝廷からも重んぜられて信仰されてきました。

【兵主大社】(28日)

 【兵主大社(ひょうずたいしゃ)】は、滋賀県野洲市五条五六六番地にあります。
 大鳥居をくぐると三百メートルの松並木の参道があり、正面に兵主大社楼門翼廊(ろうもんよくろう)があります。天文十九(1550)年に建てられたもので県指定文化財になっています。楼門を入って右側に、亀の口から水が出るお水屋があります。【兵主大明神(ひょうずだいみょうじん)】は亀に乗って鹿に守られて琵琶湖を渡ってきたというところから、『兵主大社』の神紋は「亀甲鼻菱紋」なのです。
 拝殿も入母屋造りの立派な建物で、その輿の本殿は切妻造りの一間社で、厳かな雰囲気を醸し出しています。

【兵主大明神(ひょうずだいみょうじん)】
 【兵主大明神(ひょうずだいみょうじん)】は、もともと中国の神様で、武神であり、武器を造る神様として中国古代から崇敬されていた神様であることが分かります。
 武器は鉄で造られますので、採鉱や製鉄の技術を持った人々が中国から渡って来て、当然この人達は兵主神を祀り、祭りを行って集落を形成していきました。武器だけでなく、鉄を鋳造する技術によって農業や鍬(くわ)や鋤(すき)、それに生活必需品の鍋や釜などを造る部族集団をつくっていきました。
 国守りの武器と国造りの道具を製造する人々が信仰する兵主神は、日本の国造りの【八千矛神(やちほこのかみ)】(=大国主神(おおくにぬしのかみ))と合体し、【兵主大明神(ひょうずだいみょうじん)】として広く崇められる様になり、日本の神様となられたのだと思います。
 『兵主大明神』が最初に祀られたのは、第十二代景行(けいこう)天皇の御代で、大和国の穴師山(現・奈良県桜井市)でありました。
 後に都が近江国(おうみのくに)に遷された時に、『兵主大明神』は大津の坂本に御遷座されました。
 第二十九代欽明(きんめい)天皇の時に坂本から琵琶湖を渡って、近江の穀倉地帯といわれる湖東平野に集団の移住が行われました。その時に『兵主大明神』が現在の地に奉遷(ほうせん)されたといいます。
 五條資頼(ごじょうすけより)という人が八っ崎浦へ趣いてみると、湖中を大亀に乗った白龍が、多くの鹿に護られながら進んでくるのを霊視しました。五條資頼はこの竜神こそ『兵主大明神』の神霊であると感じ、お祀りしました。

【那波加神社】(29日)

 【那波加神社(なばかじんじゃ)】は、滋賀県大津市苗鹿(のうか)1-8-1にあります。 第三十八代天智(てんじ)天皇は、都を大和から近江国(おうみのくに)の大津に遷(うつ)しました。その天智天皇が遷都したのは天智六(667)年の三月でした。
 『那波加神社』の創建は天智天皇七年とありますから、この地に遷都した翌年に建立された事になります。
 平城(へいじょう)天皇大同二(807)年には『那波加荒魂社』が創建され、別宮としたと伝えられています。この荒魂社は上宮(うえのみや)と呼ばれ、那波加神社は下宮(したのみや)と呼ばれたと伝えられています。
 比叡山横川中堂の再建用材は、この那波加神社の神林から調達され、比叡山との深い関係が続いていた記録が残されています。

【苗鹿大明神(のうかだいみょうじん)】
 『那波加神社』の御祭神は【苗鹿大明神(のうかだいみょうじん)】です。『苗鹿大明神』は【天太玉命(あめのふとだまのみこと)】が老翁と化し、稲を背負った鹿に導かれて、この地に降臨した神様だと伝えられています。
 苗鹿(のうか)の地名はこの伝承によるもので、「のうか」の読み方は、『那波加神社』の『那波加(なばか)』が転化(てんか)したものです。
 苗を背負った鹿のことを「苗鹿(なは(わ)か)」といい、那波加の字を当てて神社の名前とし、地名と大明神の字はそのまま苗鹿の字が残ったものと思われます。
 主祭神の『天太玉命』は、天照大神が天の岩戸にお隠れになった時に、天照大神を再び高天原にお出まし頂く為に活躍なさった神様の一人です。
 『天太玉命』は、天香山(あめのかぐやま)へ行って男鹿(おじか)の肩骨を抜いて焼き占いをした結果、天香山の大榊(おおさかき)を取って来ました。その枝に沢山の勾玉(ながたま)をつけ、中枝には大きな鏡(八咫(やたの)鏡)を取り付け、下枝には白や赤や青等の色とりどりの美しい布を垂れ下げて岩戸の前に飾りました。そして御幣(ごへい)を立てて榊の前で礼拝しました。それから八百万(やおよろず)の神々が賑やかにはやし立て、鶏が鳴き立てる外の様子を不思議に思った天照大神は、天の岩戸を細めに開けてご覧になりました。その時、【天手力男神(あめのてじからおのかみ)】が岩戸を開いて『天照大神』の手を取り引き出し奉りました。その時、『天太玉命』はしめ縄を岩戸の前に引き渡されたので、『天照大神』は引き還ることができず、再び高天原に在りました。天地は再び太平の世となることが出来ました。
 この『天太玉命』は、『苗鹿大明神』となって天下り、天地の平安と農業を始めとした産業の進展のためにお働き下さっております。

【吉備津神社】(30日)

 【吉備津神社(きびつじんじゃ)】は、岡山市吉備津931にあります。『吉備津神社』は神体山「吉備の中山」の麓にあって「吉備の国、一品(いっぽん)一之宮」として尊ばれ、夏至の日の朝日を真正面から受けることで、「朝日の宮」とも呼ばれています。
 備前国には一之宮【吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)】があり、備前国一之宮は同じ『吉備津神社』ですが、備中国の一品一之宮を「三備の一之宮」と称し、吉備国の総鎮守の氏神として、備前と備後の神社は、この分社だといわれています。
 神体山の中山の山頂にある元宮には盤座(いわくら)があり、夏至の太陽に向かって鎮座しているといいます。また中山茶臼山には、この地を平定した【吉備津彦(きびつひこ)】の宗廟があるという事です。
 もともと山頂にあって、氏神として祀られていた神社は、集落の形成と共に麓に移され、幾度か再建され、南北朝後足利義満(よしみつ)によって、応永三十二(1425)年に建立されたものが現在の社殿です。この社殿の本殿はいま国宝に指定されていて、比翼入母屋造り(ひよくいりもやづくり)の桧皮葺(ひはだぶき)で吉備津造りと呼ばれています。

【吉備大明神(きびだいみょうじん)】
 吉備の国は、砂鉄を豊富に産し、それにともなう高度の技術を持つ人達が渡来し、鍛冶産業や農耕も盛んな豊かな王国を形成していました。それに瀬戸内海の制海権を掌握していた強大国でした。その建国の始祖は【御友別命(みともわけのみこと)】であり、その子の【中津彦命(なかつひこのみこと)】でありました。
 しかしこの王国をねらって異国より鬼が来て国を乱す事になりました。それで吉備の国は大和朝廷に鬼の対治を願い出ました。大和朝廷から派遣されたのが武勇の誉れ高い第7代孝霊天皇の皇子、【吉備津彦命(きびつひこのみこと)】でありました。『吉備津彦命』は吉備国を平定し再び平和な国となりました。
 これが「桃太郎伝説」の原型になったといわれています。したがって『吉備津神社』には主祭神として『吉備津彦命』が祀られ、これに配して吉備国の始祖である『御友別命』と『中津彦命』が祀られ、また『吉備津彦命』の兄弟である孝霊天皇の皇子、皇女の六柱が祀られています。
 この主祭神の『吉備津彦命』と合計八柱の祭神は、吉備国の氏神神社に祀られて神体山の神様と合体し、総称して【吉備大明神(きびだいみょうじん)】と申し上げます。
 『吉備大明神』の御神徳は、御祭神の『吉備津彦命』が非常な長寿を保たれたことから寿命長久の守護神として信仰をあつめています。
 また吉備国は古来産業の栄えた国であることから産業の守護神として崇められています。また御祭神の御事蹟から生まれた桃太郎童話から安産育児の守護神としても尊ばれています。

【五番の善神(ごばんのぜんじん)】(31日)

 【三十番神(さんじゅうばんじん)】の信仰は、国内の名ある神社三十体を勧請して日番に守護せしめた事に始まります。この護法善神(ごほうのぜんじん)の観念は、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)の普及によって南北朝時代に至ると、法華教団(ほっけきょうだん)全般にとり入れられ、その後室町、江戸期を通じ現在に至るまで、広く民衆の信仰を集めてきました。
 明治五年、太陽暦(たいようれき)が採用されると、従来の大陰暦(だいいんれき)を一年の季節に合わせた旧暦(一ヶ月は二十九日か三十日)には無かった三十一日が生じました。その結果、旧来の【三十番神】に空白日の日番役割を担う一神を加える必要から、過去長き歴史にわたり持経者擁護(じきょうしゃおうご)の誓願をたて篤き信仰を寄せられた【五番の善神(ごばんのぜんじん)】が、三十一日の日番として勧請される様になりました。
 霊鷲山(りょうじゅせん)において釈尊(お釈迦様)から【法華経(ほけきょう)】の説教を聴聞した三世十方(さんぜじっぽう)の諸仏(しょぶつ)、諸菩薩(しょぼさつ)、諸天善神等(しょてんぜんじんとう)が釈尊滅後の法華経持経者(じきょうしゃ)を守護するとの誓願を立てたという確信は、日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)の生涯を貫く不動の信仰でした。そしてその信念に最も影響を与えたのは【法華経】『陀羅尼品(だらにほん)第二十六』に登場する二聖(にしょう)、二天(にてん)、鬼子母尊神(きしもそんじん)・十羅刹女(じゅうらせつにょ)による法華経持経者に対する擁護の教説でした。
 『日女御前御返事(にちにょごぜんごへんじ)』には“陀羅尼品と申すは、二聖、二天、十羅刹女の法華経の行者(ぎょうじゃ)を守護すべき様を説きけり。二聖と申すは薬王(やくおう)と勇施(ゆうぜ)となり。二天と申すは毘沙門(びしゃもん)と持国天(じこくてん)となり。十羅刹女と申すは十人の大鬼人也、四天下の一切の鬼神の母なり、又十羅刹女の母あり鬼子母神是也”と述べられています。
 平安朝時代には、貴族社会を中心として『法華経』は信仰され、その結果必然的に二聖、二天、鬼子母神・十羅刹女は【陀羅尼品】の重要尊として崇敬を得たようであります。後白河法皇(ごしらかわほうおう)の勅撰(ちょくせん)になる『梁塵秘抄』にも“ゆめゆめいかにもそしるなよ、一乗法華の受持者をば、薬王勇施多聞持国十羅刹女の陀羅尼を説いてぞ護るなる”とうたわれています。
 二聖、二天、鬼子母神・十羅刹女が【五番の善神(ごばんのぜんじん)】の言葉として成立したのは、少なくとも室町中期であり、法華信者の間に一般化したのは江戸時代と言われています。

【日蓮聖人の五番善神信仰】
 日蓮聖人は『下山御消息(しもやまごしょうそく)』に“法華経守護の釈迦(しゃか)・多宝(たほう)・十方分身の諸仏・地涌千界(じゆせんがい)・迹化他方(しゃっけたほう)・二聖(にしょう)・二天(にてん)・十羅刹女(じゅうらせつにょ)・鬼子母神(きしもじん)”と代表格の守護神として、五番の善神を挙げられておられます。
 また行者守護の要請として『兄弟抄(きょうだいしょう)』には“いかなる事ありとも、日蓮が二聖二天十羅刹女釈迦多宝に申して云々”など、他数多のお手紙の中で、【五番(ごばん)の善神(ぜんじん)】を信仰する事の重要性を記しておられます。
 この様に、日蓮聖人は【五番の善神】に絶対の信を持たれ、お弟子さんや信者さんにも鼓吹(こすい)されたので、現在に至るまで日蓮宗では重要視され、【五番の善神】を篤く信仰することで、諸怨退散の修法が発展し、宗門修法道の重要な位置を占めるに至っております。
 更に補足を加えますと…『持国天(じこくてん)』『毘沙門天(びしゃもんてん)』は四天王の中の二天です。【四天王(してんのう)】とは、欲界の六欲天のうちの四天王衆天の主で、須弥山(しゅみせん)の中腹に住み四方の世界を守護する神様で、須弥山の頂上の宮殿に住む『帝釈天(たいしゃくてん)』に従い、また八部衆(はちぶしゅう)を従えています。
 須弥山の東面に住み東方を守る『持国天』、南面に住み南方を守る『増長天(ぞうちょうてん)』、西面に住み西方を守る『広目天(こうもくてん)』北面に住み北方を守る『多聞天(たもんてん)』をいいます。また『多聞天』は、梵語を音訳して『毘沙門天(びしゃもんてん)』とも呼ばれています。
 【四天王】『序品(じょほん)第一』に記されています。また日蓮聖人御真筆の『御曼荼羅御本尊(おまんだらごほんぞん)』にも、法華経の世界を守る様にして四方に勧請されていますから、法華経が説かれる場の守護神として重要な位置を占めていることは明らかでしょう。
 『四天王』のうち特に『持国天』と『毘沙門天』は、『薬王菩薩』と『勇施菩薩』の二聖、『鬼子母神十羅刹女』と共に【五番の善神】に数えられる二天として、日蓮宗では篤く信仰されています。