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玉連山真成寺の由来

 真成寺の初代住職は、慈光院日等(じこういんにっとう)上人というお方です。
 日等上人は、魚津市の東北4キロの大谷温泉の裏山にある、大谷の郷に誕生されました。幼い頃より智徳に優れ、「1を聞いて10を悟る神童」と噂され、幼少の頃より村人達から一目を置かれる存在でした。
 青年となった日等上人は、【法華経】“南無妙法蓮華経”こそが、世の人々の心に光を灯す教えであると悟られ、日蓮宗の僧侶になる事を決意されます。
 その頃、都である京都の地において、学徳兼備の名僧として尊敬をあつめておられたのが、日蓮宗京都本山「妙覚寺(みょうかくじ)」第19世・寂照院日乾(にちかん)上人でした。そんな日乾上人に弟子入りを志願するため、京都へ修行(行学二道)の旅に出立されます。
 京都に到着すると、日乾上人と無事に面会を果たされます。日等上人の篤い信仰心が受け入れられ、日乾上人より「真如房(しんにょぼう)」という僧名を頂戴しました。
 お師匠様である日乾上人のもと、一意専心行学二道に励むこと10年。【法華経】“南無妙法蓮華経”の有り難さを確信した真如房は、教えを広めるために、生まれ育った魚津市大谷村に帰郷することを決意されます。真如房の決意を聞いた日乾上人は、「真如房よ。法華経を信仰する行者を守護する祈祷の本尊は鬼子母神様。ここに霊験あらたかな鬼子母神様を、そなたに授与する。大切にお祀りして、故郷の灯火とならんことを…」と、布教伝道に出発する真如房は、日乾上人から授けられた鬼子母神様を有り難く拝受し、故郷の大谷村に帰郷されました。昔なつかしい真如房の帰郷に村人達は大いに喜び、かつて神童と呼ばれた真如房の教えに、村人達は感銘を受けて次々に帰依していきました。その名声は瞬く間に大谷村に轟きました。
 そんな折、松倉城(鹿熊城=かくまじょう)の大家老、玉ノ池伊織が病魔に侵され、生死の境を彷徨っていました。妻と子は、付近に安置されている松の木明神に日参して、「どうか、病気が平癒しますように…」と祈願の日々を過ごしておりました。ある夜のこと、眠りについた妻と子に“大谷の行者を招き加持祈祷をお願いせよ”と夢のお告げがあります。同じようなメッセージを受け取った妻と子は、藁をも掴む思いで大谷の行者と名高い真如房を館に招き、病気平癒の御祈祷をして頂きました。祈祷本尊である鬼子母神様に心を込めて祈祷する真如房。すると霊験たちまち病魔を退散し治癒されたのです。その時の感激は如何ばかりだったことでしょう。
 また、家老吉崎多聞(よしさきたもん)の妻が難産で苦しんでいる時にも、鬼子母神様をお祀りした御宝前において、真如房が唱える【法華経】“南無妙法蓮華経”の御祈祷によって、難産が安産へと導き救われたという伝説も残されております。
 【法華経】“南無妙法蓮華経”の教えの有り難さ、そして霊験あらたかな鬼子母神様の功力に、両家一門すっかり帰依し、城内に「玉池庵(ぎょくちあん)」を建立し、真如房へ寄進されました。永正14(1517)年の戦国時代の頃、これが真成寺の創建でございます。

 玉ノ池伊織と吉崎多聞の両武士に玉池庵を御寄進いただいた真如房は、お師匠様を尋ね再び上京されます。新寺建立の報告を受けた日乾上人の喜び一方ならず、大永5年(1525年)に“玉連山真成寺(ぎょくれんざんしんじょうじ)”という寺号公称を賜り、真如房には“慈光院日等(じこういんにっとう)”という日号(僧名)を授けられ、日蓮聖人の御尊像(鎌倉時代の作)も、その時に授与されました。
※日蓮聖人の御尊像は、毎月1日午前5時の朝勤に御開帳させて頂いております。

 また、真成寺は別名「鬼子母神様のお寺」として親しまれておりますが、昔から日蓮宗以外の信者様からも「お乳もらいの鬼子母神様」として信仰されています。
 霊験あらたかな鬼子母神様は、毎年10月8日の「鬼子母神大祭」の御縁日に御開帳させていただいております。どなたでもご参詣できますので、ぜひ一度ご来寺ください。

慈光院日等上人の墓碑

 真成寺の初代住職・慈光院日等上人は、天文4年(1535 年)4月1日、58才でお亡くなりになりました。
 時を経てること昭和39年7月1日のこと。真成寺の女性檀信徒のグループ「たちばな婦人会」の発願により、日等上人の生まれ故郷、魚津市大谷の山間に墓碑を建立し、真成寺第34世・谷川日龍上人導師のもと落成式を行いました。
 以来、毎年7月第3日曜日の早朝、日等上人のご遺徳に感謝して墓碑周辺の清掃活動をさせて頂いております。山の新鮮な空気を吸いながら、真成寺住職を筆頭に、檀信徒や一般有志の皆様と一緒に行う清掃は、自らの心磨き、清々しい気持ちになります。
 真成寺の檀信徒ではない有志多数の皆様から仰がれ、大切に扱われている聖地。清掃活動は、どなたでも自由にご参加いただけます。参加ご希望の方は、お電話か Mail にてお気軽にご連絡ください。
TEL 0765-22-2268
Mail:nbmkanjp@yahoo.co.jp

日等上人の師匠「寂照院日乾」上人

 日乾上人は、永禄3年(1560年)〜寛永12年(1635年)10月27日(諸説あり12月6日とも言われている)、安土桃山時代から江戸時代前期にかけてご活躍なされた日蓮宗中興の僧侶です。
 慶長6年(1601=江戸時代)京都本満寺の貫首や、日蓮宗総本山身延山久遠寺の第21世住職をはじめ、大阪能勢関西身延と称される、近畿の霊場「無漏山真如寺」に、身延七面山より分祀された、七面大明神をお祀りされ初代住職など他多数の由緒ある日蓮宗寺院を歴任なされておられます。
 近世初頭に起った《受不受の論争》は、身延山久遠寺20世の日重猊下・21世の日乾猊下・22世の日遠猊下のご尽力により、今日の身延山の基礎を築かれました。日重・日乾・日遠三師は通称“重乾遠(じゅうけんのん)の三師(さんし)”として尊称されます。「日蓮宗門中興の三師・身延中興の三師」のお一人が、「寂照院日乾上人」という聖人です。