慈光院日等上人の御廟(お墓)

 現在、富山県魚津市大谷の山間に、慈光院日等上人の石碑があります。
 慈光院日等上人は、富山県魚津市大谷村に生まれ、幼い頃より智徳に優れ奇童と呼ばれておりました。
 日蓮宗京都本山妙覚寺第19世寂照院日乾上人のお弟子となって、「真如房」 という僧名を頂戴しました。
 10年間勉強した後、 さらに中山法華経寺(千葉県市川市)で行われる、世界三大荒修行の1つ、寒壱百日間の大荒修行に入り大験者となられて、故郷のお墓参りに大谷村へ戻られた。
 日等上人は鹿熊城の元老、玉ノ池伊織の難病を、荒修行で相伝された御祈祷よって、難病を治されたといいます。
 また、吉崎多門の妻の難産を祈願により安産に導かれたという伝説も残されております。それらの奇跡とも言うべき「南無妙法蓮華経」の御祈祷の有り難さに、両家一門はすっかり日等上人に帰依し、伊織の屋敷内に部屋をつくって「玉池庵」と名付けた。その後、大永5年(1525年)に、日乾上人より玉蓮山真成寺の寺号公称を許され、また院日号を賜った。それでお喜びになり、鹿熊城の西北に一精舎を建立し、日蓮聖人および鬼子母神様の御尊像を安置なされた。
 日等上人は天文4年(1535年)4月1日、58才にしてお亡くなりになりました。昭和39年7月1日、真成寺のたちばな婦人会の発願により、現在の石碑をつくって、落成式を行いました。地区住民は現在も参詣し、敷地の清掃を行っています。



※毎年1回、7月の第3日曜日に日等上人のお墓掃除がございます。檀信徒ならびに、一般人有志自由参加ですので、心ある方は是非この機会に参加してみてはいかがでしょうか?詳しい日時などは、お気軽にお問い合わせ下さい。一人でも多くのご参加をお待ち致しております。


真如房から慈光院日等上人への改名

 玉ノ池伊織と吉崎多聞の両武士は、真如房の師匠である、日乾上人を尋ね京都に参上し、日乾上人に新寺建立を報告すると、日乾上人の喜び一方ならず“玉連山真成寺”というお寺の名前(山号寺号)と、真如房に“慈光院日等”という僧名(院号)を賜りました。更に日蓮聖人の御尊像(鎌倉時代の作)を授与されたのです。この御尊像は毎月1日午前5時の朝勤に御開帳させて頂いております。
 また、日等上人が大家老の難病を御祈祷する時に所持された鬼子母神様は、足利時代に将軍足利義教に「立正治国論」を献上し、水攻め火攻めの後、熱々に焼かれた焼鍋を頭に被せられるという法難に遭われた、通称“鍋かむり日親上人”の御作と伝えられております。そんな日親上人が荒修行中に、三体の鬼子母神様を彫り上げられたと言われますが、そのうちの一体が、その時所持された鬼子母神様という伝承があります。
 真成寺は別名「鬼子母神様のお寺」として親しまれておりますが、その鬼子母神様の霊験にすがり、昔から他宗派からも「お乳もらいの鬼子母神様」と信仰され、霊験あらたかで、毎年10月8日の御縁日には、午前11時の御祭礼に御開帳させていただいております。

真成寺御開山日等上人の師匠『寂照院日乾』上人

 日乾上人は{永禄3年(1560年)〜 寛永12年10月27日(1635年12月6日)}、安土桃山時代から江戸時代前期にかけてご活躍なされた日蓮宗中興の僧侶です。
 真成寺の御開山日等上人(お寺を開いた初代住職)は、当時妙覚寺の住職だった日乾上人の御弟子になられました。
 師匠である日乾上人は、江戸時代に入って慶長6年(1601)京都本満寺の貫首(住職)、日蓮宗総本山である身延山久遠寺の第21世住職にもなられております。
また、現在の大阪能勢関西身延と称される、近畿の霊場「無漏山真如寺」に、身延七面山より分祀された、七面大明神をお祀りされ初代住職となっておられます。
 他多数の由緒ある日蓮宗寺院の御開山となられた日乾上人は、近世初頭に起った受不受論争は20世日重・21世日乾・22世日遠のご尽力により、身延を諸山・諸門流の盟主となし、その地位を確固ならしめて、今日の身延山の基礎を築かれました。
 日重・日乾・日遠三師は“重乾遠の三師”として「日蓮宗門中興の三師・身延中興の三師」と尊崇されております。

大谷の山間にある慈光院日等上人の石碑

石碑の近くには湧き水が出で、
寿の水場と呼ばれている。